2016年07月18日

竜と流木(篠田節子)

竜と流木 -
竜と流木 -  2016.5

南の小さな島の泉でそっと生きてきた生物ウアブ。説明からだとウーパールーパーのようなもの。島が開発され泉が無くなることになり愛好者たちは隣の島のリゾートホテルの池に移植することにするが・・・
自然と共生した島の暮らしに踏み込むリゾート開発、南国の自然を売りにしたホテルの敷地内は作られた自然だ、とか、ワニやイモリなど時には人間を襲う動物ともうまく共生してきた島の暮らしに相対するホテルの自然など、自然をそのまま守ることの難しさ、人間の都合によって自然を作り換えても、そうたやすく自然は屈しないぞ、といった警告を発している。
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郡山市開成館

美術館の後、郡山市開成館に行ってみました。
日本三大疏水の一つ安積疏水の敷設にあたって中心となった建物です。明治7年建築。
郡山市開成館

疏水がひかれるまで郡山周辺は水に乏しく荒れた荒野が広がる寒村であったとされます。西の天空514mに豊富な水を讃える猪苗代湖は日本海側に流れ、「猪苗代湖の水を安積荒野へ」という疏水開さくの構想は江戸時代からあったといいます。安積に水が流れると会津方面への水が少なくなるのではないか? これを解決したのが十六橋水門。疏水の完成は明治15年。

展示では文学者の「久米正雄の住んでいた部屋」などというものがあり、又久米正雄の「故山の雪」という文が置いてありそれによると、母の実家は米沢藩士で廃藩置県後この安積に移住した。夫は長野で校長をしていたが校舎焼失で御神影を焼いてしまったということで自刃し、母は実家の地に戻り、当時この開成館は2階が村役場、1階は村民の住む所に貸していた、ので正雄8歳から19歳までこの開成館で育ったと書いてあった。

開成館内安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)
同じ敷地内にある「安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)」
久米の「故山の雪」には、母の父は立岩一郎と言って・・とあり、とするとこれは久米正雄の母が育った家ということになる。開成館と同じ時期に建てられ、「福島県開拓掛」の事務所は開成館2階におかれ、3名の職員は官舎にその他の職員は1階に住んでいたとある。久米正雄は明治24年生まれで郡山に戻ったのは8歳の時とあるので、明治32年。母は実家そのものには戻らず貸し間となっていた開成館に住んだということか。

安積開拓入植者住宅
こちらは入植者住宅。

安積疏水の歴史(安積疏水土地改良区)
安積疏水図 (東北地質調査業協会誌「大地」2003)

安積疏水の歴史 (東北農政局)

十六門橋の功績者ファン・ドルーン (農林水産省) 桑野村の成り立ちの記述あり(開成山のある地)

郡山というと頭に浮かぶのが野口英世。昔野口英世のドラマを見た時、確か柴俊夫が英世役だったが、まだ猪苗代にいて都会へのあこがれを語るのに「郡山に行くんだ、郡山はでかいぞ」というセリフが妙に頭に残っている。ちょっと調べると英世は明治9年生まれで、明治26年から29年あたり手の手術をして会津若松に住み、29年に上京したとある。とするとこのセリフは上京直前かなと思う。疏水開設後12,3年経って郡山は急速に発展していたのだろう。会津若松も大きいと思うのだがまだ戊辰戦争の影響が残っていたのか。




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吉田博展(郡山市立美術館)

吉田博展郡山市立美術館 2016.7.17
7.10の日曜美術館での特集をみてさっそく行ってみました。実は先週までまったく知りませんでしたが、冒頭、ダイアナ妃も自ら買い求め執務室に飾っていたとか、黒田清輝の白馬会に対し旧派と呼ばれるようになって対抗していたとか(このあたりやはり前に日曜美術館で見た五姓田義松を思い出す)、途中から版画を始め、その摺りの再現などをみてとても興味が湧きました。特に版画の水面のゆらぎ。

さて郡山駅。バス停には30人位の人の列。このバス停でいいのか聞いてみると前も後ろも美術館に行く人。ほとんど美術館前で降りたのでした。

会場は年代順になっており、要所での説明版も分かりやすい。水彩、油絵、版画とくるのですが、見終わってみると、水彩が一番いいかなと思いました。スケッチブックなども展示され、ああ、こうやって無数に書いているんだと感慨します。決死の最初のアメリカ渡航とか、白馬会との確執とか、版画を彫っている画像とかを知っているのでよけい感慨深かったのだとは思いますが、1人の画人の一生懸命な生き方が絵を通して伝わってきました。

また、昭和25年に73歳で亡くなってますが、やはり戦時中は従軍画家として絵を描いていました。戦闘機に乗せてもらったようだとの説明がありましたが、日本軍の小さな戦闘機が空中から中国を爆撃している大きな絵がありました。藤田嗣治が戦争画を描いた事で戦後日本にいずらくなったと聞きますが、吉田の場合、英語が話せることで自宅が進駐軍関係者の集う場となっているのです。またマッカーサーも吉田の絵を知っていたとあります。日本洋画界の勢力では黒田清隆に負けたのかもしれませんが、子供や孫も版画家となり自宅で家族に囲まれた写真をみると、生きるように生きた、という言葉がふさわしい気がします。

なんと美術館の庭には、バリー・フラナガンのうさぎが!
Bフラナガンのうさぎ1郡山市立美術館

Bフラナガンのうさぎ2郡山市立美術館

展覧会はこの後、久留米市、上田市、東京と回る。

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「暮らしの手帖」とわたし(大橋鎮子)

【ポケット版】「暮しの手帖」とわたし (NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』モチーフ 大橋鎭子の本) -  

本人89歳の時に、子ども時代、暮らしの手帖を始めて花森氏が亡くなるまでのことを書いた。ドラマよりこの本に書かれてる事実の方がシンプルて面白く、本物の鎮子さんの方がものすごくバイタリティーがある。

大正9年3月10日、東京麹町の病院で生まれている。父は岐阜県で生まれ深川の材木やの養子となり、北大に進学し、麻を作る会社に就職。母は京都で生まれ小樽で育ち、なんと女子美を出ている。北海道の工場長として赴任した鎮子の父と小樽で出会い結婚。父亡き後は財をなした母方祖父のおかげで学校を出たとある。

職歴も日本興業銀行の調査課で経済などと銀行内の資料を作る所に配属。同期には男性15人、女性が10人位いたとある。その後、もっと勉強がしたいと銀行をやめた先輩に刺激され、日本女子大に入学するが風邪をこじらせ結核のようになり半年で退学。で日本読書新聞に入る。日本読書新聞が日本出版文化協会の機関誌を作るようになったため日本出版文化協会に出向。そこで終戦。

出征していた男性も戻ったが、「使われていたのでは収入が少ない、今まで女で一つで私たち姉妹を育ててくれた母や祖父に恩返しをしたい、自分は戦争中の女学生であまり勉強もしていない、私の知らない事や、知りたい事を調べて出版したら、自分より上下5歳位の人が読んでくれるのでは」ということで雑誌作りを思い立つ。

で、花森氏の紹介を受け、その思いを話すと「僕は母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」とその日のうちに方向性が決まったとあります。また花森氏は「二度と戦争にならないよう、自分の暮らしを大切にするようにしたい、みんなにあったかい家庭があったら戦争にならなかったを思う」と語ったとある。なんと花森氏は大政翼賛会にいたのであった。ここが衣・食・住、あの暮らしの手帖の原点なんだ、あのどこかかたくなさを感じる誌面はここであった。
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2016年07月10日

雇用身分社会(森岡孝二)

雇用身分社会 (岩波新書) -
雇用身分社会 (岩波新書) -  2015.10

著者は関西大学経済学部で2014年まで教えていた。専門は企業社会学。雇用の状態~正社員、パート、アルバイト、臨時、派遣などによって給料が違い、雇用が身分化して所得分布が階層化しているとする。

明治中ごろから紡績などに女工が集められたが、多くは募集人によって農村部から集められ工場に送り込まれた。この場合雇用関係は工場主と女工との契約の前に、工場主と募集人との契約関係であった。85年に労働者派遣法ができたことによりこの戦前と似た関係になった。くしくも85年は同時に均等法もできている。

雇用身分社会から抜け出す鍵として、1労働者派遣制度を抜本的に見直す~著者はゆくゆくは制定以前の規制に戻したいが単純業務の職種を禁止とすべきとしている。2非正規労働者の比率を引き下げる。3雇用・労働の規制緩和と決別する。 4最低賃金を引き上げる。 5八時間労働制を確立する。 6性別賃金格差を解消する。を提案している。これができれば安倍さんは苦労しないが・・

またディーセントワークという言葉を紹介している。これがこの本の最大の収穫だ。decentとは見苦しくない、礼儀正しい、恥ずかしくない、裸でない、人並みの、人間らしい、親切な、寛大な、適切な という意味。著者は「まともな働き方」としている。また、江口英一の『現代の「低所得層」 ―「貧困」研究の方法』 (1979)を紹介し、その中でワーキングプアは「あるべきものがない状態」、人並みの状態が「剥奪deprivation」されており、一般に当然と認められている状態から遠ざけられているので、社会参加不可能の状態に置かれている、と紹介し、デプリベーションはディーセントでない状態、であるとしている。

お金がないのは社会問題だというのは誰でも分かるが、根本の問題は、不安定な雇用により、まともな権利(正当な賃金と社会保障)から遠ざけられ、「社会参加ができなくなっている」ことだというのが分かった。この考えを政治家、企業家に認識して欲しい。
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2016年07月09日

小林カツ代と栗原はるみ~料理研究家とその時代(阿古真理)

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書) -
小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書) -  2015.5

2014年1月に小林カツ代さんが亡くなって約1年後に出た本である。結婚して初めて料理本なる物を見、真面目に料理に取り組んでいたのは子育て期の80年代と90年代だ。その時のビッグネームはこの本の題名のとおり、小林カツ代と栗原はるみか。戦後、料理研究家と言われた人たちの生き様とその料理の特徴をその活躍した時代とともに語った本。小林カツ代は常識をくつがえす時短料理の革命としてとりあげられている。

料理の内容から、本格派、創作派、ハレとケの4つにグループ分けして語る。小林カツ代はケの創作派、栗原はるみは創作派、西洋料理の本格派は飯田深雪や江上トミ、土井勝など。80年代は図書館でたくさんの料理本を見た。この本には取り上げられていないがさらに優雅な藤野真紀子、お菓子の今田美奈子もなつかしい。



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働く女子の運命(濱田桂一郎)

働く女子の運命 (文春新書) -
働く女子の運命 (文春新書) -  2015.12

今なおなぜ”女子”が働きづらいのか、明治期からの女子の働き方、日本の雇用(男性の)の歴史を概観することで、今の”女子”の置かれた状況をあぶりだす。

欧米では日本より女性が働きやすくなっており、M字型も台形型になっているが、それはそう昔のことではなく60年代になってからだという。その源泉は賃金に対する考え方で、欧米では企業の中の労働をその種類ごとに職務(ジョブ)として切り出し、その各職務を遂行する技能(スキル)のある労働者をはめこみ、それに対して賃金を払う。経理のできる人、旋盤のできる人といったように。なので女性の労働問題は、女性の多い職種はおおむね賃金が安く、男性の多い職種(管理職とか)に女性も進出する、ということであったという。

それに対し日本は、会社のメンバーを募りメンバーはどんな職務内容でもやるというやり方。しかも賃金は労働者の生活を保障するべきものである、という生活給思想が根本にある。それは大正11年に呉海軍工廠の伍堂卓雄の発表した「職工給与標準の要」であるという。それは第二次大戦中、戦後の労働運動の中でも継承された。扶養手当の思想はここから始まっていたのだ。

そして85年に均等法ができるが、それは世界的に男女平等が進められた時代で、欧米はジョブ型に立脚して女性の雇用を進めたのに対し、日本は生活給という日本型雇用・会社のメンバーとして一丸で働くという立脚点で進められた点にねじれがある、というのだ。

日本型の女性労働の平等化は会社のためなら深夜でも外国でもいとわず、どんな仕事でもやります、という男性の土俵に女性も乗せるもの。均等法から30年、ワークライフバランスという言葉がむなしく響く。
posted by simadasu.rose at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・女性(評論・エッセイ) | 更新情報をチェックする
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