2016年07月09日

働く女子の運命(濱田桂一郎)

働く女子の運命 (文春新書) -
働く女子の運命 (文春新書) -  2015.12

今なおなぜ”女子”が働きづらいのか、明治期からの女子の働き方、日本の雇用(男性の)の歴史を概観することで、今の”女子”の置かれた状況をあぶりだす。

欧米では日本より女性が働きやすくなっており、M字型も台形型になっているが、それはそう昔のことではなく60年代になってからだという。その源泉は賃金に対する考え方で、欧米では企業の中の労働をその種類ごとに職務(ジョブ)として切り出し、その各職務を遂行する技能(スキル)のある労働者をはめこみ、それに対して賃金を払う。経理のできる人、旋盤のできる人といったように。なので女性の労働問題は、女性の多い職種はおおむね賃金が安く、男性の多い職種(管理職とか)に女性も進出する、ということであったという。

それに対し日本は、会社のメンバーを募りメンバーはどんな職務内容でもやるというやり方。しかも賃金は労働者の生活を保障するべきものである、という生活給思想が根本にある。それは大正11年に呉海軍工廠の伍堂卓雄の発表した「職工給与標準の要」であるという。それは第二次大戦中、戦後の労働運動の中でも継承された。扶養手当の思想はここから始まっていたのだ。

そして85年に均等法ができるが、それは世界的に男女平等が進められた時代で、欧米はジョブ型に立脚して女性の雇用を進めたのに対し、日本は生活給という日本型雇用・会社のメンバーとして一丸で働くという立脚点で進められた点にねじれがある、というのだ。

日本型の女性労働の平等化は会社のためなら深夜でも外国でもいとわず、どんな仕事でもやります、という男性の土俵に女性も乗せるもの。均等法から30年、ワークライフバランスという言葉がむなしく響く。
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2011年10月09日

古代ギリシアの女たち(桜井万里子)

古代ギリシアの女たち―アテナイの現実と夢 (中公文庫) [文庫] / 桜井 万里子 (著); 中央公論新社 (刊)
「古代ギリシアの女たち~アテナイの現実と夢」桜井万里子著 

古代ギリシア展に行きギリシアづき
さっそく読んでみました。1992年12月に中公新書として出たものに補章がつき文庫化されたもの。
桜井氏は古代ギリシア史が専門で、当時この本は氏の最初の著作で日本で初めての古代ギリシア女性に関する概説書だったということです。

今までの研究では、アテナイの女性は抑圧されていた、いや社会的地位は低くなかったという2つの見方があったが、それは著者がギリシャを美化したいという無意識感にも左右される。がそこにフェミニズムの立場に立ったポムロイがでて、そういう女性観の違いは選択する史料によると指摘した。肯定派は悲劇、彫刻、絵画などにより、否定派は歴史学的著作や社会組織の著述によっている。しかしいずれにせよ古代ギリシアの女性に関しての文字史料は男性によって書かれたものがほとんどで、そこに書かれる女性は男性の眼が捉えた女性像、ということになる、と桜井氏は言う。しかし当の女性が書いた文字史料がほとんと無い現状では、男性のフィルターを通った史料だ、というのをふまえ、遺された文字史料と壷などの遺物をもとに実態を解明したいと最初に言っている。

この本の中に出てくる史料は、法廷での弁論とか、プラトンとかの著作やギリシャ悲喜劇などだ。たしかに「世界の名著」とかにはプラトンからソクラテスなどの名前があり、ギリシア劇全集などの本も出てるが、ここでふとまた疑問が湧き、あれ、それらは紙に書かれてたの? 粘土板?とか新たな疑問が湧いたが分からずじまい。最後の参考文献を見ると、「ギリシア碑文集成」なる本も出ている。まあいろいろとわからないところが出てきます。ギリシアには法廷があり、そこでのやりとりも文字史料として残っているのは驚きです。

あとは展覧会ではなにげなく壷や絵皿の模様や図柄を見てましたが、こちらもおそらく男性が作ったものなのでしょうが、ダイレクトに女性の姿が伝わります。紀元前300年代には「人が遊女(ヘタイラ)を持つのは快楽のため、妾をもつのは身のまわりの世話のため、妻をもつのは嫡子をもうけるため、そして家の中の管理を任せるため」という言葉が法廷で語られたとあります。昔は分業で今は妻1人で担っている。このヘタイラは体だけでなく、お話の相手にもなったようで、日本の花魁や芸者のようなものらしい。紹介されてる絵皿には今のビデオも真っ青の図柄があります。いやまったく紀元前からこんなことやってたんだあと恐れ入ります。生殖と性、これなくしては人類は滅びるのですからね。。

巻末の参考文献をみると、この紀元前の世界の文字史料というのがたくさん日本語訳で出版されている。普通の人ならさらっと読んでしまうところを桜井氏はそこに女性の姿を探し出します。

さらにamazonを見てると、
ファロスの王国―古代ギリシアの性の政治学〈1〉 [単行本] / エヴァ・C. クールズ (著)... という本にぶつかりました。これは壷絵などを元に女性の姿に言及してるらしい。岩波書店刊。 

新・現代歴史学の名著―普遍から多様へ (中公新書) [新書] / 樺山 紘一 (著); 中央公論新社 (刊) 「ファロスの王国」は中公新書の「新・現代歴史学の名著」の中の1冊にも選ばれてる。



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2011年01月10日

女ぎらい(上野千鶴子)

女ぎらい――ニッポンのミソジニー -
女ぎらい――ニッポンのミソジニー -  2010.10.16

女ぎらい~ニッポンのミソジニー

ミソジニーとは「女性嫌悪」、もっと別な言葉では「女性蔑視」とも訳せるという。女から女への、自分自身へのミソジニーは「自己嫌悪」、男から女へのミソジニーは「女性蔑視」となるという。多くの男が「女でなくてよかった」と思い、多くの女が「女に生れてソンをした」と思う。この構造のことらしい。この「ミソジニー」というものを、女性にとって意識の隅にあってなかなか気づかないけれど、なにか居心地の悪い気がする、という部分を論旨明快に説明する。

男の価値は男が決め、女の価値は男によって決められるという。また同様に、学業偏差値と女性偏差値と女ウケ偏差値はねじれの関係にあるという。学業偏差値とは自分だけで獲得できるものだが、女性偏差値~言い換えるなら男にどれだけモテるか、というのは百パーセント他者=男によって決定される。女ウケ偏差値というのは女だけの集団で評価されることである。

この辺を、「女好き男」のミソジニーとして、吉行淳之介と永井荷風を、「非モテ」の例として秋葉原事件、また男系の観点から皇室のミソジニー、春画のミソジニーでは、ポルノグラフィにおける視線の所有者は男、その視線によって所有されるのが女の快楽である、という非対称性を分析。そして「負け犬」の酒井順子、林真理子、中村うさぎ、東電OL殺人事件、などを分析。

行き着くところ、今の世の中、いかに上野千鶴子氏がこのような本を書こうとも、いや書かざるを得ない、書いて女のありようを女が分析したくなるのは、今生きてる現実がやはり男によって作られ、男によって運営されるてるからだよね、ってことなんじゃないでしょうか。。

参考文献が巻末にありますが140余。
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2010年11月20日

おひとりさまの老後(上野千鶴子著)

おひとりさまの老後 [単行本] / 上野 千鶴子 (著); 法研 (刊)
2007.7

発売後一時ベストセラーになっていた本。ついに上野さんも老後ですかいと、自分の老後はまだ先という気がして読まなかったが、今度の新刊「女ぎらい」がおもしろそう、とアマゾンを検索して驚いた。この「おひとりさまの老後」はコメントが80件もあり、しかも平均☆3つ。アマゾン内では氏の著書中最低の評価でコメントは最多。その他の本はだいたい☆4と5でせいぜい10人位のコメントだ。そうか、ベストセラーになるってことは通常の読者以外の人も取り込むことなのだな、と改めて認識した。

でコメントだが、平均は3だが、☆1が23人、☆2が17人、☆3が10人、☆4が16人、☆5が14人。ということは最多は☆1なのだった。同意の数も☆2が最多でで533人だ。☆3までの人はこの本に拒否反応を示している。社会的に成功しお金もある上野氏のような人にしかあてはまらない、というもの。

それで、一体どんな内容なのか、と興味が湧き読んでみた。
最初にこの☆の先入感あって読んでるわけなのだが、賛同する所もあり、そうじゃない所もあり。こういう考え方もあるよね、と気楽に読めた。なにより文章が平易でおまけに氏が大声出したいところは太字になっている。

よく言ってくれた、と安心したのは「同居は究極の愛の踏み絵」という所。子供が親に同居しましょう、と言えない「やろうと思えばできるのに、そう言ってあげられないわたし」を責め続ける嫁や娘、という下り。って現実には同居”してやってる””いい娘”の私なのではあるが、好き好んでそうしてるわけじゃないのを分かってくれたようで、なーんだみんな(かどうか知らないけど)そうなのかという胸のすく思い。年取って子供にやさしく「お母さん、同居しましょう」と言われてもキッパリ断ろう、と言っている。「やさしい娘でいられる距離」を保とうと言っている。ココが☆3つまでの人にはカチンとくるところらしい。同居しないと経済的に無理な人もいるのに何事か、というらしい。しかしそういう感想を持つ人はある意味羨ましい。家族に甘い幻想を持っていられる、家庭内の親子の葛藤が無い人なのか。親に干渉されたことも無く、夫婦とどちらかの親とが和やかに食卓で会話が弾んでるのかな。

あとは、施設じゃなく家で暮らしたい、というのは、家族じゃなく、物理的な「自分の家」という空間だ、というのもはっとする所だ。

おひとり様には何より友達、というのも反発を買ってるところだが、夫に先立たれた妻に友達はとっても大事であると感じる。そりゃボケたら最後は肉親でしょうが、ある程度元気な時、持つべきものは茶のみ友達や姪っ子あたりではないか。ワンクッションあるので関係が気楽なのである。これは老母を見てるとそう思う。娘ともっと話したいと思ってるのは痛いほど感じてるが、「いい娘でいられる距離」を越えてるので難しいのだ。そんな時心のすき間を満たしてくれるのが茶のみ友達と、甥っ子姪っ子である。夫がいて夫と価値観が合えば、それが一番である。そこはちょっと氏とちがうかな。

同時に「女ぎらい」も図書館にあったので借りてきたが、こちらは本来の上野節。拾い読みだが、ふだんもやもやと思ってることを言葉にしてくれている。☆1の人がこれを読んだら卒倒するんじゃないか。こちらは買おうと思う。
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2010年10月24日

私という病(中村うさぎ)

私という病 (新潮文庫) -
私という病 (新潮文庫) -

桐野夏生の「グロテスク」を読んで、モデルの事件の解釈にぐさりとくるものがあった。自分の内部にも通じるものを感じたからだ。中村うさぎがこの本でそれに触れていると知り読んでみた。

彼女は3日でやめてしまったがデリヘル体験をし、その体験が語られている。そのさわりだけの本の紹介をみて、読んでない人は単なる興味本位の体験ルポととるだろうが、実は中身は、女という性の、自身の考察である。

「グロテスク」を読んだ時、4人の登場人物すべてが自分にあてはまる気がしたが、小説なのである意味、著者ともども第三者的に俯瞰する感じになる。ところがこれは中村うさぎがさらけだされているので、そこに共感する部分があると、より直截的にこちらにはね返る。この本の感想も男性からは揶揄と侮蔑であったのに対し、女性からは批判と軽蔑はそれほど届かなく共感さえもあったという。その違いは見出しの「男の自己正当化病と女の引き裂かれ症候群」「欲望する側とされる側」といった言葉にも表れている。

東電OLに関しては、「たった一人の戦い」として、彼女の濃い化粧をコスプレに例え、濃い化粧をすることで、「もうひとりの自分」が殻を突き破って躍り出た瞬間に、彼女は凄まじい恐怖と快感を同時に覚えたはずだ、と分析している。どちらが本当の自分なのかという疑問が愚かしくも空疎に感じただろうとし、うさぎ氏とおなじように、自分が「女」という性的存在であることに、嫌悪感や罪悪感を抱いていたタイプであろうとしている。

「もうひとりの自分」は周囲に認められないと潜在化する自分。周囲とは男である。そしてこれが男女逆転することは無いであろう。男は男に認められることを欲し、女は男に認められることを欲するのではないか。


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2010年06月27日

ザ・フェミニズム(上野千鶴子)

ザ・フェミニズム (ちくま文庫) -
ザ・フェミニズム (ちくま文庫) -

上野千鶴子と小倉千加子の対談集。2000年7月に大阪のドーンセンターで行われた公開対談と、2001年の密室対談。関西弁で小気味よくバッサリやっている。夫婦別姓をあほくさと言っていてえ?と思ったら、さらに進んで戸籍制度、婚姻制度そのものを否定しているのだった。

あとがきで上野氏はフェミニズムは世の中のノイズであってほしいと思ってきていて、ある種の人々にはとってもノイズ(耳ざわり)な存在だろうと言っている。そして食わずギライで通り過ぎたら無いのも同じと言っている。・・きっといまだに政界財界を筆頭に、ある種の人にはノイズがノイズにならず食わずギライで、存在しないことになっているんだろうな。

2010読了
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家父長制と資本制(上野千鶴子)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -
家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -

副題~マルクス主義フェミニズムの地平

フェミニズムとマルクス? 一体どこでどうつながるのか?

婦人解放(時代を感じる言葉です)思想の歴史をみると、社会主義婦人解放論は女性解放を社会主義革命に還元し、ラディカル・フェミニズムは性革命を再重要視する。歴史的に女性は男性に支配されてきた、との両者の説だが、それを階級支配というなら、それをマルクス主義は「資本制」と名付け、フェミニストは「近代家父長制」と名付けた。

それに続く思想として、新マルクス主義フェミニズムが現れ、それは上記2つの論を統合したものである。近代社会の中で女性は「資本制」と「家父長制」の二重の抑圧を受けているというのだ。

会社・社会は男が作った男による男のための社会で、かかあ天下なんてまぎらわしい言葉もあるがそれはオブラートで、家庭は男を再生産するための場所、であるな、と言い換えてみる。

それにしてもなんと論旨の展開の明快さよ。

2010読了
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スカートの下の劇場(上野千鶴子)

スカートの下の劇場 (河出文庫) -
スカートの下の劇場 (河出文庫) -

副題~ひとはどうしてパンティにこだわるのか

単行本で出た当時、豊富な下着の広告写真と書名から、エロ本かと期待するが、論旨明快にパンティの形の変遷を通して女性イメージの作られ方の分析をした本である。

「セクシイ・ギャルの大研究」は下着に限らない広告を通しての女性イメージの研究だが、ここに使われているのも多くが下着の広告写真である。見る性(男)みられる性(女)という観点がよりダイレクトに現れるのが下着広告かもしれない。互いに抱く異性へのイメージは越え難いギャップがあることを再確認している。

この本は当初、化粧品会社ポーラの業界紙「IS」に載せる予定だったものをふくらませたものだという。

2010読了
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2010年06月24日

セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方(上野千鶴子)

セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫) -
セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫) -

1982年カッパブックス刊。相互行為論というのを研究しているアメリカのアーヴィング・ゴフマン(1922-82)の書いたgennder advertisements という1976に書かれた本をもとに日本版応用編を書いたもの。「性からみた広告」という訳でいいのか? 1980年に刊行されたマスメディアに登場する商業広告ー「アンアン」「ノンノ」「モア」「ミセス」「プレイボーイ」「ポパイ」等に載ったものを対象にしている。広告にみられるポーズ・行動を通してそのメッセージを読むというもの。

広告からは男女の「らしさ」ごっこが伝わり、その演じ合いは対等ではなく、女は演技者で男は観客で現実社会の力関係を現しているという。そして広告は時代の一歩先を行くのはいいが三歩先を行っては受けてにメッセージが伝わらないという。なので広告はその時代の了解事項を示しているので広告分析はその時代の典型的な考え方の基準が表現されているという。

広告には魅力的な女性が多く登場するが、それは男から男への、女を媒介にした欲望のメッセージだという。女性向け商品であっても購買力のあるのは男という前提で、女性が登場する。女性が女性を見るときには男の色眼鏡をかけるー「男の目からみたらきっとセクシーに見えるに違いない」と。一方女性はセクシーな女性を見ても不愉快にはならず、モデルに同一化してナルシズムを味わうというのだ。

これらは女性にとってはなんか目にゴミが入ったような生活上の違和感として現れるのではないか。それを上野氏が論理的に明解に書いてくれる。

上野氏の第1作ということで、これからの数ある著作の側面があらわれている。

2010読了
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2010年05月29日

マリー・キュリーの挑戦(川島慶子著)


マリー・キュリーの挑戦 科学・ジェンダー・戦争

マリー・キュリーの挑戦 科学・ジェンダー・戦争

  • 作者: 川島 慶子
  • 出版社/メーカー: トランスビュー
  • 発売日: 2010/04/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




副題に「科学・ジェンダー・戦争」とあるように、キュリー夫人を中心に女性科学者が女性であったために受けた、あるいは辿った、人生の軌跡を描く。他にはアインシュタインの最初の妻や、原爆の母とも称されるリーゼ・マイトナー、などをとりあげる。

キュリー夫人というと、子供の頃に読んだ児童向けの伝記によってイメージが作られている。しかし娘エーヴの伝記の冒頭にある「その人は、女だった。他国の支配を受ける国に生まれた。貧しかった。美しかった」というように、女性、戦争、家柄、容貌、この四つがマリーの生涯を方向付けたとしている。

最初のノーベル賞は「女性で最初の」受賞、しかも夫妻で受賞するとインタビューは(めずらしいので)妻であるマリーに集中、二度目の未亡人になってからの受賞も(未亡人なので)さらに有名になる。これが仮にマリーが先に亡くなって、夫ピエールが残って二度目のノーベル賞を受賞してもさほど話題にはならなかっただろうと著者は言う。

さらに子供向け伝記では触れられてなかったが、夫亡き後の研究者との恋愛事件。これは相当マリーにダメージがあったらしいが、相手の男性研究者はまよくあること?としてさほど問題にならなかったとか。

さらにこの本で初めて知ったことだがキュリー夫人の容貌。もちろんこの本の表紙にも使われている写真は見ていた。が、キュリー夫人の二人の姉は「かなりの」美人だそうだ。載っている、マリー20才ころの家族写真をみてもそれは分かった。しかしマリーは決してブスではなく「そこそこの」美人だったそうだ。しかも小柄で華奢。夫ピエールは彼女が学生の時、教師として出会っているが、ピエールは当時のお気に入りのマリーの写真をずっと持っていて「とてもお利口で小さくてかわいい女子学生さん」と呼んでいたそうだ。やはり生身の男女だったのですね。

この「そこそこの美人」というのは、女性の見かけばかりが重視される、ジェンダーバイアスのかかった社会で出世するには、最適の条件だったというのだ。あまりの美人だと男が集まってきすき、また美貌ゆえに科学界でその意見をまともに取り合ってもらえなかったかも知れないというのだ。う~んなるほどである。これは現在でも十分に生きてる状況である。

アインシュタインの最初の妻ミレバも同じ科学を志していたが、出自がセルビア人、足が少し悪くそして「いかつい体格」で「あまり美人とはいえない」容貌。そのジェンダーバイアスばかりではないだろうが、義母に気に入られなかった彼女は専業主婦になり科学の世界からは消えてゆく。

男性の基準で作られてる世界で生きるということは? 今も昔もそういう世界ではあるが、男性の基準にまた女性も慣らされてしまっているのでは?

娘のイレーヌの夫は同じキュリー研究所に勤めていたフレデリック・ジョリオ=キュリー。これがフェラール・フィリイップ顔負けの美男だったらしい。しかし3才年下で、家が貧しかったため物理専門学校卒。すでにイレーヌは国家博士号を取った一人前の科学者。キュリー夫人は娘の結婚宣言に驚きつつも、フレデリックもイレーヌ同様、国家博士号を取ることを条件にしたという。しかも偉大な義母の期待に応え二人でノーベル賞をとっている。「下流の宴」の翔クンの母親をちょっと思い出してしまった。 ジェンダーバイアスをはめるなら、これがキュリー夫人の子供が男で、相手が助手だった、というのだったらすんなりなんだろう。

ほかにキュリー研究所で働いて、放射能のため若くして逝った山田延男という日本人科学者や、フレデリック・ジョリオ=キュリーの元で研究した湯浅年子を紹介している。


キュリー夫人伝

キュリー夫人伝

  • 作者: エーヴ キュリー
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2006/03
  • メディア: 単行本



娘のエーヴが書いた母親キュリーの自伝。1938年マリーの死後4年後に書かれる。多くの児童書はこれが元になっているという。

キュリー夫人の素顔 (1975年)
1975年 ロバート・リード著

マリー・キュリー
1984年 フランソワーズ・ジルー著 このあたりから娘エーヴでは触れられていない部分も描かれるようになったという
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2010年02月06日

モダンガール論(斎藤美奈子)


モダンガール論―女の子には出世の道が二つある

モダンガール論―女の子には出世の道が二つある

  • 作者: 斎藤 美奈子
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2000/12
  • メディア: 単行本




約9年前に書かれたもの。男性には無い二者択一の道。専業主婦と働く女性はどこで分岐したんだろう、という素朴な疑問から、斎藤視点で、明治から書かれた時点の2000年までの女の道。

第一章:将来の夢、みつけた では明治になって新たに女に開かれた道、女学生。職業婦人、主婦、を検証。職業婦人とは先生とか電話交換手とか事務系の職業。

しかし第ニ章で、実は第1章であげた世界はほんの少数の「絵に描いた餅」の世界だった、ということで当時の大多数を占める”貧乏人”に光をあてる。それは農民と都市の労働者。ここでの女性の職業をいろいろ検証してる。大正期、白いエプロンをしたカフェーの女給さんの図、というのがあるが、それは関東大震災を機に大いなる変貌を遂げたというのだ。もう昨今のノーパン喫茶顔負けのいろんなサービスがあったらしい。しかもなかなか公式資料が無い、として68年の「アサヒ芸能」で有名人が、こう遊んでおった、と語った記事が紹介されている。実は和服の尻が割れている、とかエプロンのポケットの裏も抜けているとか、この中で大宅壮一さんが遊んだ「オルガン・サービス」など、想像すると、もう大正・戦前昭和の”ススンダ”風俗にびっくり仰天!なんだ大宅氏もしっかり遊んでたんじゃない、とちょっと評価下がりました。しかし斎藤氏は検証します。こうもあの手この手のサービスが出るのも女給のチップ制にあったのだ、としています。

あとは大正期の母性保護論争と今やなつかしい80年代のアグネス論争をわかり易く整理してくれました。

「婦人公論」誌上での与謝野晶子(女の経済的な独立が先決・大正7.3月)と平塚雷鳥(女に母性保護は必要・大正7.5月)、87年テレビ局に子連れ出勤したアグネス(育児と仕事を両立させたい・中央公論87.10月)と感想を述べた林真理子(育児と仕事は分離すべき・文芸春秋88.5月)いづれも子供がいて女が仕事をするには?の論争

母性は「わたくしごと」でありそれを「公の場」にもちこむのは女の甘えだ(与謝野・林)。かたや母性はわたくしごとではなくそれを「公の場」にもちこむのはけっして女の甘えではない(平塚・チャン)

そしてこの対立に割って入る論客が戦前は山川菊枝。山川は両者の論争の核心を「育児と職業の両立問題」だと看破し、晶子の「女権論」と、らいてうの「母性論」、どちらも保障されねばならないが両者には社会的な変革の視点が欠けていると批判した。ここでの変革とは社会主義革命。しかも山川は「男性にも家庭に於ける態度を改善せしめ」て育児に協力させよ、としている。しかし大多数が農業の戦前、これは社会論争にはなりませんでした。

方やアグネス論争には上野千鶴子が「男が子連れ出勤をしないでいられるのはだれのおかげか」と朝日新聞88.6月で芸能人の問題をみんなの視点にズラし、さらに竹内好美がさらに林は男性社会の論理、アグネスは働く良妻賢母主義だとし、要求すべきは男に家事育児を分担させることだと主張(朝日ジャーナル55.5/28)

いやいや大正から始まりいまだ解決していません。晶子は育児中の女性に経済支援などいらぬ自分で自立しろと言ってましたが、いまや児童手当があります・・ お父さんも保育園に子供を連れてってますが、男が子育てするとそれだけで新聞記事になります。 自営ならともかく雇われて働き育児するには「ばあや」なり「じいや」がいて気兼ねなくひょいと休める職場環境が必要。そこで山川の言う社会革命が出てくるのでしょうがそれは破たんしました。


明治末から現れ、今も続く女性誌の概観もおもしろい。また70年代末の会社説明会の記述。一流企業へは「現役・自宅」が条件、ああ、なつかしいですねえ、そうでした。

とまあこんな具合に、1945以前の戦前の50年と戦後の50年の女性の状況の歩みが重なると言って年表がついてますが、なるほどそうです。今はその先の時代になっていますが、さてどう進むんでしょう。



モダンガール論 (文春文庫)

モダンガール論 (文春文庫)

  • 作者: 斎藤 美奈子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/12
  • メディア: 文庫


 文庫本もあり。斎藤氏の恩師の解説がある。
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2009年08月15日

すっぴんは事件か(姫野カオルコ)

姫野カオルコ。名前だけは知っていたが読んだことはなかった。新聞で介護のインタビュー記事があり、見ると2つ下で載ってた写真もスリムでなにか興味をもった。それは一人っ子の姫野さんが父、おばと介護をし今は母を介護しているということでの記事だった。それに関連して「もう私のことはわからないのだけれど」という介護とか痴呆関係の本も最新刊であるらしい。

で興味を持って本屋に行ってとりあえずエッセイでも読もうかと棚にあったのがこれ。

すっぴんは事件か?

すっぴんは事件か?

  • 作者: 姫野 カオルコ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/11
  • メディア: 単行本



なんとインタビュー記事とはうってかわってけっこう過激な内容。ぱらぱら読んで見るとけっこう共感するところがある。「ジャズをかけるな」という最近多い、すし屋に流れるジャズなど、一昔前ではあり得ないジャズとの組み合わせに対するうんちくとか、「エロ本の男女差」の考察とか、”それってヘンでは?”という”そうなっていること”について首をかしげる、そんなエッセイですと巻頭で書いている。

年齢も近いせいか例えに出るテレビ番組とかタレントとかが身近。齋藤美奈子さんあたりと近いか?と感じた。林真理子の毒舌ともちょっと違うが至近距離。


ブスのくせに!最終決定版 (集英社文庫)

ブスのくせに!最終決定版 (集英社文庫)

  • 作者: 姫野 カオルコ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 文庫



もう1冊文庫コーナーにあったのがこれ。なんてったって「ブスのくせに」という題名である。これもぱらぱらめくるとぴーんと波長が合ってしまった。
これは筆者によると人が人に対して「ブスのくせに」と言ったり思ったりする心情のバリエーションを考察した「人の外見ウォッチング」である。それが男の女に対する、あるいは人間のオスがメスに対してしてとる行動考察になっている。

第4章の「美人じゃないけどかわいい」の隆盛 が圧巻である。ひごろ女性が(いや私と姫野氏だけかもしれない)感じている、「なんであのコが男に受けるのか」という謎を姫野流にみごと書ききっていた。そうかそうだったのか。まことにおおざっぱに言うとメスがオスに受けるには肉体、頭がオスより大きく・優っていてはいけないのである。その象徴として受けるメスを菊池桃子、受けないメスを浜美枝としている。(そこは姫野氏の年齢で古めの例になる)あまりに均整がとれて神々しくてはいけない。どこかスキのあるやわらかくて普通の体と見た目がいいんである、・・ということになる。まあなんとなくそうかも、と誰しも感ずいてはいるんであろうが。しかし大多数のメスは桃子系かも。浜系は少数派だ。前田美波里、藤原紀香らは男性の目は惹くが気は惹かないとしている。気を惹くのは桃子系で、浜系はあくまでグラビア観賞用、あまりにグラマラスだと男性は引いてしまうらしい。桃子系は自分でも言い寄れるかも、という希望が見える系、とでもいうか。昔ピンク・レディーでミーとケイどっちがいいか、というと男性の多くはケイの方であった。これなどこの姫野公式だったのかと今にして思う。

最後の藤原紀香と”かわいい”田村亮子の考察が最高。格闘技という男の美の勝者には、美しい美女でなければいけなかった・・・のだが・・ボクシングの勝者・畑山の前に現れたのは・・・ 

姫野カオルゴ公式HP


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2007年09月15日

米原万里の「愛の法則」

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書)
米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)
 2007.8

'98から'05年の講演4つ。
「愛の法則」と「国際化とグローバリゼーションのあいだ」は高校での講演。
「理解と誤解のあいだ~通訳の限界と可能性」「通訳と翻訳のちがい」は一般向けの講演会。

惜しくも06年にお亡くなりになった米原さん。最初の「愛の法則」は闘病中のものである。高校生相手にここまでしゃべるか、とどっきりしてしまうが、彼女の手にかかるとあっけらかんとしてしまう。彼女が本を読み通訳をしてきた中での男女の彼女流の考えである。・・「男性はサンプル」説。歴史をみると女性は男性に選ばれて自由意志が無いように見えるが、生物としての種の伝達としてみると、男性は生き延びうる強い遺伝形質を持つものが女性に選ばれれている、というもの。

やはり目を惹くものはあと3つの通訳を通じての、言い換えれば言葉を通じての世界や社会の見方である。

「国際化」というのは英語では「グローバリゼーション」を使うそうだが、もとは「グローブ=地球儀」が語源。英語圏では自分たちの基準に世界を合わせること、逆に日本ではその英語圏の基準に日本を合わせること、として使うという。これは目からウロコであった。もう知らないうちに日本的発想でしか生活してない自分に気づく。

また同時通訳では例えば日・露・英・仏・伊あたりで会議があると、日本語訳する場合まず英語に訳してからロシア語とか、フランス語に通訳するそう。日本以外では直接通訳するが日本語は必ず英語のフィルターがかかっているということだ。こういう実情も初めて知ることである。

最近のカタカナ英語の氾濫に対して、もともと日本語は外国語を耳に聞こえる「音」だけを取り込んで会話をしやすい構造になっているという。中国語だとそれができなくて必ず意味を漢字に直さないとだめだそう。例えば「ラブホテル」は「情人旅館」と言うそうだ。日本語だと思って使っている熟語が実は中国からの漢語であるという。そういわれればそうなのだが、通訳をすると日常では気づかないことに気づくようだ。

通訳とはAさんBさん、お互いの思っていることが間違いなく伝わるように仲介をとることで、外国語で言っている事の本質を把握して、それを日本語に直す事。なので単語だけ知っていてもだめで、言わんとする事に対する言葉がいくつか連想でき、またそれが瞬時に頭に閃かないといけない所が時間をかけられる翻訳と違う所だという。言わんとすることを把握するのは分析、それを理解し通訳するのは統合だという。

また日常会話は5つ位の文型、700語くらいで事足りるという。とこれを読み「お、これなら」と思ったが、会議の通訳などは専門用語も入るのでかなりな努力は必要とのこと。

等々、翻訳、言葉を通じていろいろな事が見えてくるというのが分かる。あるいは一つの専門分野を極めればそこから事の側面が見えてくるということかもしれない。

とにかく講演筆記なので会場にいる臨場感さながらすらすらと楽しく読めます。



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2007年04月28日

それってどうなの主義・斎藤美奈子著

それってどうなの主義
それってどうなの主義
 2007.2

ななめ上、ななめ下からの視点が鋭い斎藤さんの新刊。
「それってどうなの?」は言ってみれば少数者の視点。オビの文は”違和感の表明” 日頃のニュースなどで感じるホンの小さな「アレっ?」という感覚の集成。

「紅一点論」とか「物は言いよう」「妊娠小説」などを読んでおもしろい人だなあと思ったら同い年だった。今までの著作もこの「それってどうなの?」の感じの感覚を主題を絞って書いたものだが、これは日頃のもろもろのそういう感じのエッセイなので、女同士、あるいはそういう感覚のある者同士「ねえねえ、あれってさあ」とおしゃべりしているようだ。

「拉致と連行」「空襲と空爆」といった硬い話題から、芸能人の結婚会見で聞く「奥様の手料理」は?、(女なら当たり前なのに)育児をするパパになると「翔んでる男」になる不思議とか、新潟出身の彼女ならではの「桜の咲かない入学式」「雪国はつらいよ」などハっとする視点が書かれている。

「桜の咲かない入学式」は私も感じていた。これは教科書や絵本に載ってる”入学式に桜”の挿絵に関しての文。自分も北関東に住んでいるので2,3日の差で入学式や始業式に桜はまだ咲いてないのだ。斎藤さんは子供の頃はそれを入学式を盛り上げるための架空の情景だと思っていたとか。関西人になると逆に桜は春休みに咲くものとなる。彼女はここで改めて考える。この挿絵を描いた東京の編集者は無意識に桜のある入学式を日本の常識と考えていたのでは?と。 地方の常識は辺地のこととされ、中心部の常識は全国の常識となる。多数派の無知とも言える。この視点に共感できる人はこの本を読んで胸がすくでしょう。

斎藤美奈子さん関連のHP


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2007年02月26日

私のスフレ(林真理子著)

私のスフレ
私のスフレ
 2007.1

彼女のエッセイは7割がた読んでいるか。ルンルンを初めて読んだ時はほんとうにおもしろかった。内容は文春に連載の社会事象もの、美女もの、そしてこの生育暦ものに分けられるかと思う。社会事象に関してはホントは言いたいんだけどすんでの処で言葉を呑んでいる感情を言う、そこが痛快。
そして青春ものは、よく自分の事をここまでさらけ出せるなと、自分では否定したいことも「こうよ」と書く、そこが読み手に共感を呼ぶ。

これは中学~高校、大学時代のエピソード集。「ウフ」に2002~2006連載。初めのページから刺激的である。~「中学生になったとたん、女は初めて男によって選別される。「カワイイコ」か「ブス」かに~
~友人は言う「女というのは。15歳の時にどういうポジションにいたかということですべてが決まってしまう」
~「女子大生募集」というのに自分は応募してはいけないということを知りつつあった・・

しかし少女時代の自分をブスだデブだと言ってる割にはこれを読むと、高校時代は地元ラジオでDJをしていたり、高校卒業時、懸賞作文で入賞してパリに行ったり、中学時代はデブのせいで?いじめられていたようだが一発発起して進学校に進んだりと、意外な素顔が現れる。山梨の田舎からの東京へのあこがれもよーくわかる。そこまで言うかよ、とこれでもかと自虐しつつ、どこか醒めて冷静な観察者としての林がいる、というそこがおもしろいのだろう。

小中学生時代の作文や、高校の作文が載っている。特に高校時代の「わたしの好きな人たち」というのはなんと古典文学や歴史に登場する女性について書いている。高校時代そこまで深く文学や歴史をみていたのかと感心する。

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2005年03月25日

なぜフェミニズムは没落したのか

なぜフェミニズムは没落したのか荷宮和子著

オビが画のごとく「上野千鶴子にケンカを売る」である。
著者は1963年神戸生まれ、神戸大学卒。共通一次世代。小さい頃からの俊才。
著者の原点は「なんで共通一次の点数低い男より私は安い給料なわけ?」
「“フツーの男”は女に生まれてたら単に“仕事のできないブス”なのになんであんな大きな顔してるの」である。
女なら誰しも一度は抱いた感情である。しかし仕事の経験内容によって10年もすると男性に大きく水を開けられてしまう。

林真理子のエッセイを引き合いにして80年代は女が成り上がっていけたと言う。
90年代に入ってこのかた、若い子は小さな幸せを願い、男も女も成り上がりを許さない、一人飛び出るのを良しとしないのが現状だと言って嘆いている。
女を救うはずのフェミニズムが救わなかったと言っている。

著者の世代は上野(1948.7/12生)ら団塊と、今の若い子・団塊ジュニアにはさまれた「くびれの世代」だとして、1954.4/1生まれの林もどうやら「くびれの世代」にいれている。
半分は世代論でもあるらしい。
・・らしい あまりすっきりしない読後感。
posted by simadasu.rose at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・女性(評論・エッセイ) | 更新情報をチェックする
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